フィアットとアバルト、その関係を紐解く

フィアットとアバルト。
このイタリアの2ブランドは、60年以上も前から、互いに影響しあい発展してきた。
ここではそれぞれの変遷を振り返り、2ブランドの歩みに迫ってみたい。

創業

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ジョヴァンニ・アニェッリ/Giovanni Agnelli

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カルロ・アバルト/Carlo Abarth

フィアットは1899年、イタリア トリノで産声をあげた。FIAT(Fabbrica Italiana Automobili Torino=トリノ・イタリア自動車製造会社)という社名が示す通り、創業時から自動車メーカーとしてスタートを切っている。創業メンバーであるトリノの富豪ら9人の中から最重要人物を1人挙げるなら、洞察力と経営手腕を買われて1902年に初代社長に就任したジョヴァンニ・アニェッリだろう。

1936年に誕生した「500 トポリーノ」。
イタリアの国民車としてモータリゼーションの発展に寄与した。

フィアットは以後、自動車の製造販売を中心に、路面電車や航空産業、鉄鋼、電気にまで事業規模を拡大し、イタリアを代表する企業へと発展していく。自動車の分野では1920年代に大型自動車にも着手したが、1930年後半から販売の主力を小型車にシフトする。そして1936年、現在に至るヒット作「500」の開祖となる「500 トポリーノ」を誕生させた。

アバルトの設立者カルロ・アバルトは1908年にオーストリアに生まれた。「ABARTH&C.」の誕生はそれから41年後の1949年。10代の頃からスピードやモータースポーツの世界にどっぷり浸かったカルロは、乗用車やレースカー開発を行っていたチシタリア社で技術者として自動車やF1の開発に参画する。

若き時代のカルロ・アバルト。10代後半から20代前半にかけては2輪でレースに参戦していた。

その後、会社が経営危機に瀕した際に、資産家の息子でチシタリアのワークスドライバーだったグイド・スカリアリーニとその父親のバックアップを受け、代表に就任する。創業後は、チシタリア時代から続けていた自動車の開発のほか、フィアット向けのマフラー開発など自動車部品の製造にも着手し、いわゆる“チューナー”という新分野を切り開く。自社開発の部品を組み込んだ高性能モデルで速度記録やモータースポーツに挑戦し、名声を積み上げていった。

フィアットとアバルトの関係

チシタリア時代に開発がスタートし、後にアバルト第1号車となる「204A」。

フィアットとアバルトの関係は、アバルト創業当時からすでに始まっていた。アバルトは、オリジナルの自動車開発も手掛けていたが、その記念すべき第1号車「204A」のエンジンはフィアット製だった。一方、屋台骨であるチューニング事業で、ベース車に多く選ばれたのもフィアット車だった。アバルトは、フィアット車をベースにボディに改良を加え、マフラーをはじめとする自社開発パーツを採用したコンプリートカーを製作。

コンパクトで実用的なフィアット車の魅力に、モータースポーツにも参戦可能な本格派な走りの魅力が加わったそれらのモデルは人々の心を捉え、人気を博した。

フィアットとアバルトは、フィアット車によるレースおよびスピード記録で、満足できる結果を残した場合にアバルトに報酬を支払うという契約を結び、2ブランドはより関係を強めていく。アバルトはその資金を元にレース参戦や、それを視野に入れたフィアットベースのコンプリートカーの開発を行った。代表作は600をベースに1961年にデビューし、ツーリングカーレースを席巻した「850TC」や、その発展型で62年に登場した「アバルト1000TC」、500Dをベースにボアを拡大し、1963年に誕生した「アバルト595」、翌64年にストロークアップでさらなる排気量アップを果たした「アバルト695」など。

「595」や「695」の車名は60年代からのもの。エンジン排気量を示していた。

これらのコンプリートカーは60年代から70年代初頭にかけてモータースポーツシーンで活躍し、歴史にその名を刻んだ。

フィアットとアバルト、それぞれのクルマづくり

フィアットといえば、デザインにこだわるブランドというイメージが強い。たとえば現代のチンクエチェントは、そのデザインと実用性の高さが評価され、ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤー(2008)を獲得。そのスタイリッシュなデザインは、人気を博した「NUOVA 500(2代目モデル)」のデザイン要素を取り入れ、実用性や安全性も兼ね備えた点が高く評価された。

1957年に登場した伝説の小型車「NUOVA 500」。

フィアットの長いデザイン史のなかには、かつてカーデザイン界をリードするカロッツェリアと密接に結び付いていた時代があった。たとえば1967年に登場した「フィアット124スポルトスパイダー」は巨匠ピニンファリーナの作品で、「X1/9」はベルトーネの手によるもの。「NUOVA 500」はフィアットの技術部長を務めていた技術者でありデザイナーでもあるダンテ・ジアコーサが手掛けた。

ベルトーネのチーフデザイナー、ガルチェロ・ガンディーニの手による2シーター・ミドシップスポーツカー「フィアットX1/9」。

フィアット車のデザインは、その道の権威により生み出され、磨き上げられたのだ。そしてその伝統は現代のフィアットのチェントロスティーレ(スタイルセンター)に継承され、スタイリッシュで実用的、かつファンなデザインが追求されている。

またフィアットのクルマは、型にはまらない自由な発想で人々を楽しませてきた。初代ムルティプラ(ダンテ・ジアコーサ作)などは、全長3.5mという現在の軽自動車より少し長い程度のコンパクトなサイズで、3列シートを配置。1998年に登場した2代目では2列シートで6人乗りという掟破りのパッケージングで話題となった。

2代目「フィアット ムルティプラ」(マイナーチェンジ前モデル)。3座×2列シートという珍しいレイアウトを採用していた。シートはそれぞれが独立しており、ホールド性や快適性が追求されていた。

さらに現行のチンクエチェントに採用されている2気筒ツインエアエンジンでは、小排気量とマルチエア(電子制御油圧式の吸気バルブ開閉システム)の組み合わせで低燃費化を実現している。こうした技術の探求から生まれた“革新"が織り込まれているのも、フィアットらしさの一部。

FIAT

ABARTH

アバルトがこれまでに生み出したモデルは、レースを戦うためにつくられたものか、高性能を追求したスポーツモデルのどちらかだ。カルロ・アバルトの情熱がモータースポーツに注がれていたため、アバルトのクルマはスポーティという図式ができあがり、顧客もそれを望んでいた。アバルト第1号車の「204A」は、モンツァで開催されたコッパインターヨーロッパの1100クラスにおいてグイド・スカリアリーニの運転で見事優勝を果たすなど、創業当時から性能の探求は始まっていた。

アバルトは速度記録にも積極的だった。写真は「アバルト750」をベースとする速度記録仕様車(1956)。車体のデザインはベルトーネが担当した。モンツァ・サーキットで24時間の平均速度156.985km/hを達成し、Hクラス(500-750cc)で優勝した。写真の一番右はカルロ・アバルト。

レース活動と並行して行っていたマフラーの製造販売も、クルマの性能を高めるという点において、クルマづくりと方向性は同じ。アバルトのマフラー製造は、創業から数年後に年産30万本規模にまで達していたというから相当な急発展ぶりだが、それはアバルト製マフラーがユーザーから高評価を得ていた証だろう。

アバルトがフィアット傘下に入って最初に送り出した「アバルト 124ラリー」。

そうしたレースでの活躍に裏付けされた性能の追求はアバルトの名声を高めることになったが、もうひとつアバルトが広く人気を集めた要因を挙げるなら、その多くがコンパクトで、比較的手が届きやすかったこと。アバルト車は小さくても性能に妥協はなく、高性能だったことから、アバルト=コンパクトカーが得意というイメージが広まった。その長年かけて培われたクルマづくりの情熱のノウハウの蓄積は、今日のアバルト車にも受け継がれている。

「アバルト1000ベルリーナコルサ」(1965)。フィアット600Dをベースとするアバルトのチューニングカーは、850TCへとグレードアップし、後にさらなる排気量アップにより1リッタークラスへと発展。1000ベルリーナコルサの最高速度は185km/hに達した。